序

 幽霊を見た人は少ない。多くの人にとって、たぶん一生体験しないことだ。だから、そういう話を耳にしても、どこか他人事であるかのような、輪の外側にいて、安心して聞いていられるようなところがあるのではないだろうか。
 怖い話といえば幽霊の目撃談であり、テレビでしょっちゅうやっているので、慣れてしまう。本もたくさん出版されている。創作ではなく、実際に体験したことなので仕方がないのだが、似たようなパターンが多い。
 そこで――というわけでもないのだろうが、新しいタイプが出てくる。『本棚とタンスのわずかな隙間に、幅が数センチの幽霊がいた』、『生前に撮った娘の写真に怪しい光が写っていた。お寺に持っていくと住職から、「残念ですが、娘さんは地獄に落ちました」と言われた』といったものが、私は目新しいと思う。しかし体験した芸能人が別の番組で同じ話をすると、あるいはネットワーク上で同じ話を見かけると、本人には大変申し訳ないが、「またか」と思ってしまう。
 もちろん、いわゆる幽霊以外にも恐怖談はある。妖怪、ドッペルゲンガー、正夢、ポルターガイスト等々。しかしこれらは、幽霊よりもさらに現実味がとぼしく、怖いというよりむしろ不思議な話だろう。
 後ろから肩をとんとんと叩かれ、振り返ってみると誰もいない、というのが昔、私は恐ろしかった。夜、一人で机に向かっている時、自分がそんな目にあったらどうしよう、と思っていた。子供の頃は、素直に怖がることができたのだ。今は、幻覚は目に見えるまぼろしだけを言っているのではなく、五感すべてに起こりうることを知っている。
 なんでも、人がもっとも恐怖を感じる方向は後ろ、次は側面、その次が前なのだそうだ。人間は見えないものを恐れる性質を持っているらしい。私が背後から肩を叩かれるのを特別に怖く感じたのは、そういった要因があったせいではないか、などと思う。
 幽霊目撃談の大半は幻覚かデマ。心霊写真の多くは作り物、カメラの機構によるもの、あるいは錯覚。人間の脳には物の形を簡略化して覚えている細胞があり、例えばフェイスマークを初めて見た人が、何の説明も受けなくてもそれが顔を表していると分かるのは、その細胞の働きによるものだ。だから木や岩のちょっとした模様が顔面に見える。
 そういう事を学習すればするほど、興ざめしてしまう。子供の頃は知らなかったのだ。
 なお、私は心霊現象のすべてを否定するものではない。幽霊は存在する、あるいはしないと、百パーセント完璧に証明できる人などいないのだ。
 テレビの恐怖番組を見ると、司会者もゲストもみんな心底ぞっとしているようにみえる。しかし、子供じゃあるまいし、あんなに怖がるはずがない。あれは仕事だからそうしているのだ、などと考えてしまう。
 私にはむしろ、自分の身にも起こり得ることの方が怖いと思える。確率は低いにしても。


  日常の向こう側

「東京は晴れ時々曇り。蒸し暑い一日となるでしょう」
 日曜日、遅く起きた私は、トーストにバターとジャムを塗りながら天気予報を見ていた。焼きたてのソーセージにソースをかけ、アイスコーヒーにミルクをたっぷりと注ぐ。平日ではこんな事をしている余裕はない。休みの朝の、ささやかな贅沢だ。
 私はチャンネルを変えた。バラエティー番組で、お笑い芸人がバカな事を言っている。パンをかじりながら新聞を取り上げ、テレビ欄を読む。だが、見るものはたいてい決まっている。何か変わったものをやっていないだろうか。日曜はいわゆる長寿番組というやつが多い。きっと、みんな出かけているから、激しい視聴率競争などないのだろう。だからどうということもないものが長生きする。ところが、見るとこれがなかなか飽きないのだ。オーソドックスで、出演者も視聴者も肩肘張らなくていい。ものすごく面白いわけでもないが、さりとて退屈でもない。おやつに例えていえば、ピーナッツだ。
 朝食が終わったので、食器を流し台に持っていく。たわしを水で濡らし、中性洗剤を数滴かけ、もむと、みるみるうちに泡がたってくる。
 さて、今日は何をしようか。現在、恋人はいない。友人とはこの間ゴルフに行ったばかりだ。一人でドライブでもするか。いや、日曜日は混んでいるし。
 後片付けが終わったので、歯を磨く。さらに万全を期すために、洗浄液で口をすすぐ。
 テレビの前に戻り、タバコを吸う。
 インターネットでもしていようか。ほぼ毎日見ているサイトが二、三ある。それ以外でいいコンテンツにめぐり合えることは、そんなにない。アマチュアが書いた小説を読み、アマチュアが描いた絵を鑑賞し、アマチュアが作ったフリーソフトをダウンロードする。たいていは、暇つぶしにしかならない。それほど貧乏でもないので、金を払ってプロが作ったものを買った方が良い。
 もちろん、プロフェッショナルが設けているホームページもある。例えば、お医者さんが解説をしているサイトがそうだ。しかし、自分が病気か、または作家でもない限り、そういう情報を積極的に収集する意義があるだろうか。
 こうして、時間は過ぎていく。結局は、いつもと同じようにテレビをだらだらと見て過ごす。しかし、それが休日の醍醐味ではないだろうか。やるべき事柄をリストし、優先順位をつけてこなしていくのは、平日だけでいい。
 お昼になった。飯は用意していないので、買ってくるか外で食うかどっちかだ。久しぶりにうまいラーメンを食べたい。私は財布を持って出かけた。
 駅前の店で味噌ラーメンを食った。大きなチャーシューがのったやつだ。
 さてどうしようか。本屋にでも行ってみるか。切符を買い、電車に乗る。いつも混んでいるが、休日の今頃だと楽にすわれる。窓から見える風景も明るい。平日だと朝か夜なので、自分だけでなく景色までくたびれている。
 人並みに押し出されることもなく、悠々と降り、改札を出る。
 二、三分歩いて、本屋に入った。大きくて、欲しいものはたいてい手に入るので、私はこの書店が好きだ。まず一階でミステリーを物色する。残念ながら、いいのはなかった。専門書には興味がない。漫画を売っている四階には入りづらい歳になった。そこで私は、文庫本がある三階に行った。だいぶ迷って、結局ヒューゴ、ネビュラ賞をとっているSFを買った。
 しばらくその辺をほっつき歩いてみようかとも思ったが、他にすることもないので、電車に乗った。帰りもすわれた。せっかく出かけたのに、特に目新しい事もなかったな、などと思う。さて、晩飯は何にしようかな。
 ホームに降りる。自動販売機の前で、親父が何か飲んでいる。黒い色なので、たぶん缶コーヒーだろう。自分ももう親父と呼ばれてもおかしくない年齢だな。
 階段の前に来た。私は、日曜だというのに背広姿の男の後ろに着いて歩く。大変だなあ。まあ、私も休日出勤は時々あるので、他人事ではない。
 二段目に足をおろそうとした時、異変が起こった。
「うあっとと」
 私は前にいる男の背中に手をついた。心臓が口から飛び出そうな感覚が私を襲った。周りの景色が混濁した。私は転がった。まるで映画の階段落ちのように見事に。
 体中を打ちつけた。痛い。
「ううっ」という私のうめき声は、男の絶叫によってかき消された。
 私は男にのしかかるような格好で倒れていた。
 見ると、自分の親指が彼の左目に突き刺さっていた。


  ムカデ

 俺の部屋は汚い。ひどく散らかっている。で、片付けもせず何をやっているかというと、テレビゲームだ。ふと、目の隅に何か動くものを感じた。畳の上だ。俺は首をねじった。本が散乱している。主に漫画だが。
 ゴキブリだろうか。部屋の端にあるゴキブリとりの箱は、もう一ヶ月近く取り替えてない。中がどうなっているかなど想像したくもない。
 何もいない。おかしいな。気のせいだろうか。
 俺は再び街の人々に話しかける作業に没頭した。なかなかラーマの鍵に関する情報が集まらない。いけない。このおじいさんにはさっきも同じ事を聞いた。なんだか同じ所ばかりうろついている気がする。
 机の上の置時計を見る。もう夜中の二時を過ぎている。今夏休みだし、バイトもしていないので、構わないのだ。高校の時はこうはいかなかった。一人暮らしはのん気でいい。
 ん?
 俺はヘッドフォンをはずし、辺りを見回した。今確かに、サササという音が聞こえた。だがどこも変わった所はない。
 再びゲームの美しい調べを聴く。ノイズだろうか。いや、もう聞こえない。それとも隣人が壁に何かしているのか。カレンダーを貼るとか。
 店に入る。新しい武器や防具が入荷していないだろうか。残念ながらそうはいかなかった。やはり、ラーマの鍵を手に入れない限りもう何も起こらないのだろう。
 明日、沙織を誘って映画でも見に行くか。それともやっぱ、パチンコか? 久しぶりに浜っちょ達とマージャンでもするか。
 俺は身を固くした。またあの音だ。俺は振り返った。代数幾何の本の下から、細長い生き物が身をうねらせながら這い出してきた。背筋に悪寒が走った。
 ムカデだ。
 毎年夏になると、小さい奴をみかける。だがこいつは大きい。どうしよう。漫画で叩き潰そうか。だめだ、恐ろしくてできない。殺虫剤がどこかにあったはずだ。ゴキブリ用ではない。ちびを退治するために買ったものだ。
 俺はヘッドフォンを床に放り、立ち上がった。虫は週刊テレビ雑誌の下に入り込んだ。ずっと注視しているわけにはいかない。薬を探すためにはどうしても目を離さなければならない。
 小物入れ、CDケースの裏、食器棚、どこにもない。俺は探した。引き出しの中、冷蔵庫の上。
 本棚の上から二段目に、それはあった。
 数秒間躊躇し、思い切ってテレビ雑誌をはぐった。だが、すでに移動した後だった。俺は本を一冊一冊持ち上げ、確認していった。まるでエイリアンの赤ちゃんを探すかのように、おそるおそる。
 パジャマ、菓子の袋、ゲーム機、ボストンバッグ、ティッシュの箱、様々な物の下を確かめた。いない、ムカデがいない。
 結局二時間かけて、俺は部屋を整理整頓した。そのままだと、奴がどこかに潜んでいるので安心できない。しかし、すっかり片付けたのに見つけることはできなかった。きっと押入れの奥にでも行ってしまったのだろう。なにしろこんな時間だ。奴はもう寝ちまったに違いない。
 俺は布団を敷き、用心のため枕元に殺虫剤を置き、電気を消してもぐりこんだ。とても心配だったが、疲れたせいだろうか。すぐに眠り込んだ。
 次の日、俺はパチンコし、浜っちょ達とドライブし、夜はマージャンでおおいに盛り上がった。
 その次の日、俺は沙織とデートした。夜はアルバイト情報誌と漫画を読みふけった。ムカデはどこかに行ってしまったらしい。俺ん家、もう一ヶ月以上掃除機かけてないからな。住み心地が悪かったのだろう。
 翌朝、十一時過ぎに目が覚めた。いかんな。昼夜が逆転してしまう。それもまた学生の特権か。俺はもそもそと布団から這い出した。別にもっと寝ててもいいんだけどな。
 ユニットバスに入り、鏡に映った呆けた顔をながめる。こうしてつまらないサラリーマンになり、平凡な家庭を作り、どうということもない爺さんになっていくんだろうな。俺は歯ブラシを口に突っ込んだ。バイト、何にしようかな。またコンビニでいいか。家庭教師とか、やってみようかな。面倒くさそうだな。
 顔を洗う。水が生ぬるい。クーラー全快にして、ウーロン茶でも飲もう。氷をたっぷり入れて。
 海辺でかき氷売るのもいいかも。そういうのって、面白いのかな。
 俺はタオルで顔をふいた。
「ああっ、あ!」
 ほお骨の辺りに細い針が刺さり、ぬるりと抜けた。


  金縛り

「ただいま」
「あらお帰りなさい。今日は早かったのね」
 いつも残業なので、たまに早く帰ると珍しいようだ。
「いや、今朝会社に行く途中で、転んでしまってね。頭を打って、痛いので帰って来た」
「まあ、大丈夫なの?」
「まだちょっと、首が痛いんだ」
 顔をしかめながらそう言うと、洋服ダンスがある部屋に行って、鞄を畳の上に置き、背広の上着を脱いだ。
「どこで転んだの?」妻が背後から声をかける。
「郵便局の前だよ」
 バス停に行く途中に、郵便局がある。入り口の前がタイル敷きになっていて、歩道に行きかう人々を避けて、その上を通ったら転んだのだ。まるでコントで、バナナの皮を踏んだかのようにつるりと。
「今までずっと我慢していたの? 早退すればいいのに」
 大げさな、と私は思う。
「なに、少し痛むだけさ。気にする事はない」
 パジャマに着替え終わり、台所に行って食卓につく。平日に妻と二人で飯を食うのは何ヶ月ぶりだろうか。娘と息子は正月まで帰ってこない。
「お薬つけた方がいいんじゃない?」
「会社で処置してもらったさ。見れば分かるだろう」
 私は首に貼られたシップを指差した。
 妻は料理を温めなおすために、ガスコンロに火をつける。私はテレビを見ながら待つ。味噌汁のいい匂いがしてきた。
「お母さん、ビール」
「ああ、はいはい」
 私の前に五百ミリリットルの缶ビールと、コップが置かれる。泡がきれいにたつようにゆっくりとつぎ、飲んだ。のどを通る冷たい感触が、暑さを癒した。
 料理が並んだ。今日はカボチャの煮物と、アジの塩焼きと、あさりの味噌汁だ。
「タロがね」
「ああ?」
「姉さんとこの犬がね、元気がないって」
 義姉の家の犬か。そういえばもう何年も飼っている。
「歳じゃないのか? それとも、具合が悪いのかな」
 そんな他愛もない話をしているうちに、二人きりのわびしい食事は終わった。私は風呂に入った。温まると、首の痛みは治っていった。明日からまた残業だ。
 上がって、妻にもう一本ビールを注文し、居間でテレビを見ながらするめを食う。こうして平凡な一日が過ぎていく。
 十一時になったので床につく。妻はふすまに隔てられた隣の部屋に寝る。
 だが、今日に限ってなかなか寝つけない。明日中に片付けなければならない仕事はあっただろうか。いや。作っている資料は来週の頭までにできればいいし、部内会議はあさってだ。
 では、暑さのせいだろうか。エアコンは妻が使っている。だが、都心と違い、郊外のここでは夜気がひんやりとしている。
 寝返りをうつ。網戸の向こうで、虫が鳴いている。扇風機の風が、足から頭へ、そしてまた足へと往復している。眠れない。
 再び寝返りをうつ。まぶたが自然に開く。外の電灯が、室内をうっすらと照らしている。机の上に読みかけの本がある。これで、少し時間をつぶそうか。とは言うものの、そんな気にはなれない。高校の時は、おもしろい物語があると、遅くまで起きていたものだ。昔の話だ。
 上を向き、天井を見つめる。娘はどうしているだろう。孝雄君とはうまくいっているのか。
 動いているうちに、ふとんがずれた。端をつかもうとした時、異変に気づいた。おや? おかしいな。腕が動かない。右も、左も。足もだめだ。いったい、どうしたというのだろう。
 右手に力をこめる。しかし、指さえも動かなかった。これは、ひょっとして、金縛りというやつだろうか。こんなことは生まれて初めてだ。
 周囲を見る。が、怪しいものはない。女がじっとにらんでいたりしたら、気絶しそうだ。途端に、こめかみに汗がつたった。早く解けてくれ、と私は願った。こんな薄気味悪いのはたまらない。
 いくら頑張っても、体は硬直したままだ。頭だけはなんとか動くので、とにかくあちこちに目を向けた。机の脚、畳、壁、天井、どこも変わった所はない。だが、暗く、よく見えないことが、私を不安にさせる。
 声は出るだろうか。
「お、い」
 助かった。金縛りになったら、しゃべれないものだと聞いていた。
「おい」
 もっと大きく、言った。無論、妻を呼んでいるのだ。
「おおい!」
 私は怒鳴った。少し遅れて、ふすまの向こうからがさごそと音が聞こえた。
「どうしたの?」しかめ面をした妻が出てきた。
「体が、動かない」
「ええ?」
「どうやら、金縛りらしい」
「ええ?」同じ言葉を、今度は半笑いで言った。
「本当なんだ。とにかく、電気をつけてくれ」
 部屋が明るくなった。光によって霊は退散したかというとそうでもなく、手足は微動だにしない。
「お父さん、大丈夫?」
「ああ、でも、気味が悪い」
「おじいちゃんのお墓参りに行かなかったからかしら。ほら、去年参らなかったし、今年もまだ」
「夏休みがとれたら行くさ。しかし、親父がそのくらいのことで祟るとは思えない」
 父は気丈な人間だった。毎日工場で重い荷物を運んでいた。父が愚痴や文句を言うのを、聞いたことがない。
「それじゃきっと、疲れているのよ。ほら、頭は起きてるのに、体は寝ているっていう」
「ああ、この間テレビでやっていたな」
 妻としばらく話した。だが金縛りは解けない。
「お酒持ってきましょうか。飲んだら眠れるかも」
「いや、いらない。しゃべっていたらだいぶ気が楽になった。もう大丈夫だから、寝なさい」
 電気が消され、妻が出て行く。実際には大丈夫ではなかった。
 まてよ、と私は思う。今朝ころんだが、誰かに押されなかったか? そんな事はない。タイルがつるつるだったので、すべっただけだ。人にさわられたような感触はなかった。
 本当にそうだろうか。もしあの時すでに、憑かれていたとしたら。
 眠れず、不気味な想像が次々に湧いて出る。あの郵便局で、過去になにか不幸なことがあったのではないか。足首をつかまれなかっただろうか。いや、自然にころんだのだ。
 とにかくリラックスしようと努めたり、逆になんとかして動こうと力を入れてみたりした。何度も壁掛け時計に目をやる。悶々とした状態で、時間はゆっくりと過ぎていく。
 三時すぎ、ついに私は耐え切れなくなった。
「おおい、お母さん」
 ふすまが開き、妻が入ってきた。眠そうな顔をしている。
「怖くてたまらん。どうすればいい」
「まだ解けないの?」
「今、お坊さんを呼ぶことはできないか」
「まあ、困ったわねえ」
 妻は考え込んでいたが、やがて言った。
「救急車を呼びましょう」
「えっ、しかし」
「だって、こんなに長い時間金縛りが解けないなんて。どっか体の調子がおかしいのよ」
 妻はすっとんでいった。電話している声が聞こえる。そんな。朝になれば、すっかり元通りになるのではないか? しかし、金縛りというのがいったいどのくらい続くものなのか分からない。これほど長い時間解けないのは、確かに体の異常だという気もする。しばらくして救急車のサイレンが聞こえてきた。それが家の前を通り過ぎず、音が止まるのは、ひどく嫌な、心臓が縮むような気分だった。私は担架にのせられ、病院に運ばれた。こんな真夜中に。霊に対する恐怖とは別の不安が、急速に胸の内にふくらんできた。
 病院に着き、どこか陰鬱な、緑色のカーテンで仕切られた部屋に運ばれた。私は担架から小さなベッドに移された。
「どうしました?」と若い医者が言った。
「体が全然動かないんです。もう四時間も」
 私が口を開くより早く、妻が答えた。
「どこか痛いところはありますか?」
「ええ、首が少し痛いです」今度は私が言った。「今朝ころんでしまって。ほとんど治っているんですが」
 私は一人用の病室に移された。明日診察するのでとにかく寝るように言われ、眠れないと訴えると注射をうたれた。
 目が覚めるとすっかり明るくなっていた。朝食は犬の餌かと思うような質素なものだった。それから一時間もたって、やっと医師が現れた。聴診器を胸に当てられると、冷たかった。首を触診された時、「あっつ」と思わず声をあげてしまった。
「痛みますか?」
「はい」
 それから点滴をうたれ、レントゲンやその他の様々な検査を受けた。とにかく、一つの事が終わって次が始まるまでやたらと待たされる。横にすわっている妻とはしゃべる話題もなく、やたらと心配そうな顔をされる。昼が近くなる頃には気分的にすっかり疲れていた。
 妻が医師に呼ばれた。私は落ち着かず、帰ってくるのを待った。
 驚いたことに、戻ってきた妻の顔は涙で濡れていた。
「お父さん」とだけ言って泣き崩れる。
「おい、どうしたんだ。泣いてちゃ分からないじゃないか」
「あのね、それが」再び嗚咽する。
「言ってくれ。どうだったんだ」
 妻は顔を上げた。
「頚髄損傷で、もう首から下が動かないって!」

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