びゅうびゅうという恐ろしい音をたてながら、相変わらず激しい勢いで雪が男の体に吹き付けられている。ざっく、ざっくと雪原を踏みしめながら、男は真っ白な視界の中をやみくもに歩いていく。
「米山! 氷川さん!」
 男は叫ぶ。何度も、何度も叫び続けてきた名前だ。だが相変わらず、返事はない。
「寒い……」
 自らの両腕で、自らを抱きしめる。体の芯まで冷えきって、歯ががちがちいうのを、止めることができない。

 視界不良の中、丘を越え、分厚く雪のコートをまとったエゾマツの間を抜け、氷ついた川の上を渡り……そしてまた丘を越え、分厚く雪のコートをまとったエゾマツの間を抜け、氷ついた川の上を渡り……。
 雪山で遭難し、疲弊してくると、方向感覚が失われて同じ所を堂堂巡りすることがあるのだという。そんな雪山に関する乏しい知識が、男の頭に思い起こされた。
 すでに時間の感覚も、方向感覚も、失われていた。
 男は雪山での登山を、なめていたのだ。


 −−我々は"円錐"の中でしか動き回れないのだよ。
 −−どういうことですか? 先生。
 −−垂直方向に時間を、水平方向に空間をとった座標系の中では、現在の座標を頂点とする倒立した円錐の中でしか、動き回れないのだよ。まあ簡単にいえば、空間を移動すれば時間もたつ、ということだ。
 −−先生の研究は、時間は経過しないまま空間を移動する、というのでしたね。そんなことができるんですか。
 −−ああ。例えばおそろしく強力な重力場では、時間の経過が遅くなることくらいは、科学雑誌の記者をしているくらいだから君も知っているだろう? 例えばブラックホールのシュワルツシルドの壁では、完全に時間が止まってしまう。
 −−でもそれでは運動も止まってしまうのではないですか? 時間がたたないまま運動する、というのとは違うと思いますが。
 −−時間がたたなくする方法の一つの例を挙げたまでだ。ではもっと分かりやすい例を挙げよう。ワームホールは知っているだろう? あれだと入り口と出口の間には時間の差がない。
 −−ああ、遠く離れた2つの場所を瞬時に移動する、"宇宙の虫食い穴"のことですね。
 −−そうだ。ここで重要なのは2つの場所が「遠く離れている」ということではない。場所を移動しているのに時間が経過していない、ということだよ。


 思えば、あの立て札を無視したのがいけなかったのだろうか、と男は思う。
「ここより先、遭難の危険あり」の立て札を見た時、米山は言ったものだ。
「いいよ。無視、無視。迂回してったら、とんでもなく遠回りになるぜ」
 その時すでに、ちらほらと雪が舞い始めていた。雲行きも怪しかった。あの時、思い切って引き返す決断をすべきだったのだ。
 ……甘かったのだ。
 進むに従って、雪の勢いはその猛烈さを増していき、遂には真っ白な雪の壁に視界が阻まれた。気がつくと、前を行く二人の姿が見えなくなっていた。
「おい! 米山、氷川さん! どこだ!」
 ……返事がない。男は駆け出した。途端に足が深い雪の中にずっぽりと埋まってころんだ。どうしようもないあせりが、男の口をからからに渇かせ、全身から汗が吹き出し、恐怖が喉元を這い登ってきた。
「米山! 氷川さん!」


 −−先生の研究は、完成されたのですか?
 −−ああ。実験室のレベルではね。我々は直径1メートルの、"時間が経過しない"空間を作った。もちろん方法は教えないよ。これはまだ極秘段階だからね。我々はその空間にマウスを放った。マウスはその、1メートルの円内に入るやいなや、フッと消えてしまった。
 −−どうして、消えるんですか?
 −−考えてもみたまえ。0秒の間に無限の距離を移動できるのだよ? つまり無限の速度を持っているわけだ。そんなものが見えると思うかね?
 −−マウスは……どうなったんですか? 円から出てきて、どこにも変化がなかったんですか。
 −−いや、マウスはそこから出てくることはできない。マウスは永遠に時間軸上の一点にとどまっているが、我々は時間軸上をどんどん未来方向に進んでいく。だからマウスが我々と同じ"時空間"に出てくることはできないのだよ。


 男は腕時計をのぞきこむ。
 ……8時27分。
 何度見ても同じ事だった。時計は壊れてしまっていた。まさかこの寒さで動かなくなってしまった、というわけではあるまい。おそらくあの時に壊れてしまったに違いない。
 真っ白に舞い続ける雪の中、男は右も左も分からず歩き回っていた。突然、足元の雪がぼろりとくずれた。男は崖のふちから突き出した雪庇の上に足を踏み出してしまったのだ。
「わあっ!」
 4メートル近く転がって、岩にぶつかって止まった。危ないところだった。下方を見やると、急斜面が延々と暗闇に向かって延びているのだった。
 あれからどのくらいの時間がたったのだろうか。ほんの5分にも思えるし、10時間もたったようにも思える。右腕がまだずきずきと痛む。
 南西に4キロほど行った所に、避難小屋があるはずだ。しかし男には、もうどちらが南西なのかも、分からなかった。


 −−我々は次に、もっと大きな空間を作ることにした。実験室の中ではなく、普通の土地にね。我々は直径3キロメートルの、"時間がたたない空間"を作ることに成功したのだよ。でもこっちの方は未完成だ。安定して存在させ続けることができないのだ。
 −−普通の土地に、ですか? そんな事をしてもし誰か入り込んだらどうするんですか。
 −−その辺は大丈夫だ。場所は辺鄙な所だよ。北海道の旭岳の山奥だ。しかも季節は冬。登山コースからも外れている。しかも空間は安定して存在させ続けることが不可能だから、春が来る頃には元の普通の空間に戻ってしまうだろう。
 −−もし、誰か迷いこんだとしたら……どうなります?
 −−この空間は閉じているから、絶対に外に出ることはできない。そうなったら大変だ。
 −−春が来るまで、出られないというわけですか。
 −−いや、その人間には春は来ないな。ずっと冬のままだよ。冬の大雪山といったら、極寒の地だ。永遠に逃れられない、"寒冷地獄"だね。まあ、もっとも、誰か入り込んだとしたら、の話だが……。


「寝てはだめだ」
 男は重くなるまぶたを必死にこじあけ、ずるずると重い足をひきずって歩いていく。その足にはもうほとんど感覚がなかった。凍傷になりかけているのかもしれない。
 気をゆるめると、睡魔が容赦なく襲ってきて、心地よい眠りの中に引きずり込まれそうになる。
 あと何時間待てば、朝が来るのだろうか? この雪はいつやむのだろうか?
 ……分からない。
 雪の凍りつくような乱舞に巻かれながら、男は丘を登っていく。この丘を越えれば、今度こそ……。

 必死の思いで丘をのぼりきった男の視界に、再び分厚い雪のコートをまとったエゾマツの林が、薄ぼんやりと広がってきた。

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