雨

 雨が降っている。絹のように細かい雨が。周りには草原が広がっている。僕は細い道を歩いている。舗装されたアスファルトの道路であるにもかかわらず、僕の足はまるで泥沼につかっているかのようにずぶずぶと膝のあたりまで沈みこむ。それでも僕は前へと進んでいく。
 僕は両手を広げ、雨にもかかわらず真っ青な空を仰ぎ、雨を体いっぱいに浴びる。進めば進むほど体はアスファルトの中に沈みこみ、どんどん進みづらくなってくる。ついには体全体がアスファルトの下に沈んでしまった。
 僕はどんどん沈んでいく。上を見ると、ゆらゆらと揺れる水面が見える。とてもきれいだ。息は苦しくない。むしろとても安らかな気分だ。ついに水の底にたどりついた。目の前には大きな水晶の城が建っている。僕はそのあまりの美しさに心をうばわれる。
 ――水の城は水に沈む。
 ふと目を覚ますと、僕は電車の中にいる。平日の昼間の電車がこんなにすいているのかということに改めて感心する。雨はしとしとと降り続き、僕は微熱が続いている。風邪でもないし、頭が痛いわけでもない。こんな日はまたあれが起こるのではないかと思うと気が滅入る。
 ドアが開いて、隣の車両から人が入ってきた。今から競馬に行こうとしているかのような格好の、みすぼらしい、赤ら顔の親父だ。その親父は僕の向かい側の席にすわった。
 こんな奴のストーリーを読まされたんじゃかなわない、と思い、僕は席をたつ。隣の車両に移ると、そこもガラガラにすいている。
 僕には時々人の心が読めることがある。こんなふうに天気が悪く、熱が出ている時なんかは特にそうだ。心が読める、といっても何でも読めるわけじゃない。ある特定のパターンしか読めない。相手が思い描く空想世界、相手がつむぎだす物語といったものだけが読める。
 僕は営業マン風のおじさんに近づいていく。この人はどうして席がいくらでも空いているのに吊り革につかまっているのだろうか、と不思議に思う。突然パシッという音がして、目の前が真っ赤になった。


  いじめ

 小さい頃から私はいじめられっ子だった。小学生の頃、私は学校に行くのが嫌でたまらなかった。今は「いじめ」や「登校拒否」という言葉が一般的になったが、昔はそんな言葉すらあまり使われなかった。私は無理やり学校に行かされた。
 同じクラスに三郎という、典型的なガキ大将がいて、何かにつけて私に嫌がらせをするのだった。
 三郎とそのとりまき連中が私を学校の裏の林の中に連れこんでボコボコにぶんなぐった時も、雑巾をしぼったバケツの水を飲まされた時も、毛虫を食わされた時も、私はただ、「ごめんよ。許してくれよ」と言ってポロポロと泣くのだった。そんな私の反応がおもしろいらしくて、もっと陰湿ないじめをするのだった。
 三郎に出会ったのが小学校三年生の頃だったから、そんな拷問のような日々が四年も続いたことになる。しかし、中学生になってもまだ、それから解放されることはなかったのだ。小学校から中学校に上がる時には、自動的に地元の中学校に入ることになる。子供に選択の自由はない。
 三郎は中学生にしてすでに不良になった。私は三郎の使い走りで、毎日の少ない小遣いはほとんど三郎にまきあげられ、逆らうとボコボコにされるのだった。私は何をされても決して逆らうことなく、ただ泣いて謝るばかりだった。中学の三年間もそんなふうにして過ぎた。
 高校に進学して、廊下でばったりと三郎に出くわした時、奴は目を丸くした。
「よう、お前もよっぽど運の悪い奴だな。また俺と一緒だとは。まさか同じ高校だとは思わなかったぜ。お前もうちょっと頭いいと思ったけどな」
 中学の頃と同じ生活が始まった。高校生活の中で一番思い出に残っているのは、三郎が他の高校の生徒と大ゲンカをやらかした時のことだ。私は関係ないのに巻き込まれ、左手と右足の骨折、顔を十針ぬう大怪我をおった。私はいくら殴られ、蹴られても、決して反撃しなかったのだ。
 三郎はどんどん悪童になり、私もそれにつきあわされたのでいつも生傷が絶えず、成績は下の下だった。
 そんな私でも卒業後はなんとかある土木会社に入社することができた。そしてそこで再び三郎と顔を合わせたのだった。
「運命っていうのは分からないものだねえ。え? お前、ひょっとして俺にいびられるために生まれてきたんじゃないのか?」
 そこでもいじめは続いた。三郎は気に入らないことがあると私を工事現場の裏に連れていき、気が済むまで殴り、蹴るのだ。
「ちくしょう! お前がいるから俺に運が回ってこねえんだ!」
 などという、理不尽な理由を叫びながら。そんなある日、現場監督が、三郎が私を殴りつけているところにやって来た。
「おい、三郎。お前何をやってるんだ!」
「うるせえ。こいつは俺の奴隷なんだよ!」
 二人は大ゲンカになった。しかし監督は三郎の腕力を過少評価していたのだ。気がつくと監督はピクリとも動かなくなっていた。呆然としている所へ数台のパトカーがサイレンをけたたましくならしながらやって来て、あっという間に三郎をとりおさえてしまった。
「ちくしょう。離せ。離しやがれ!」


 それから数日後、私は刑務所に出向いた。看守に付き添われて、三郎がやってきた。ガラス越しに向かい合った三郎は、私を怒りに燃えた目でにらんだ。
「ふん。いい気味だって思ってんだろうな」
 しかしその後に出た私の言葉は、少なからず彼を仰天させたようだ。
「ああ、思ってるよ」
「な、なんだと。きさまっ!」
「三郎君、僕はずっとこの機会を待っていたんだよ。僕の心の内を君に告白する機会をね。僕は君にさんざんいじめられても決して反抗しなかった。なぜだか分かるかい? 僕の君への憎しみが本物だったからさ」
 三郎の両目と口がまん丸に開かれた。彼は一言も発することができなかった。
「もしも僕の憎しみが中途半端なものだったらどうだろう。僕は君に殴り返したり、罵声を浴びせたり、あるいは親や教師に君の悪口を言いつけたりしただろうね。そしたらどうなるだろう。君が停学になるか、あるいは僕が転校するか、そんなつまらない解決になるだろう。けれどそんなのは嫌だ。君のような人間はいつか破滅への道をたどるだろう。僕は君が破滅するところが見たい。だからずっと我慢して、いじめられ続けたんだ。僕の憎しみがこれほど強くなかったら、とうてい我慢することはできなかっただろう。僕は君の末路が見たいがために、わざわざ君と同じ高校に進学したし、君と同じ職場に就職したんだ」
 三郎の顔がみるみるうちに真っ赤になっていった。
「きっ、きさまあっ!」
 三郎がガラスに向かっておどりかかろうとするのを、看守がとりおさえた。
「きさまっ、きさまあっ!」

 私が三郎を見たのはそれが最後である。三郎はその後刑務所内でさんざん問題を起こし、二度と出所することはなかった。


  老婆

 このおじさんはこんな事を空想していたのか、と僕は思う。なんだか恐ろしくなってしまった。全ては空想なのだろうか。それともある程度現実が混じっているのだろうか。だとしたらどこまでが現実で、どこからが空想なのだろうか。
「鬼神鬼頭ぅ、鬼神鬼頭ぅー」
 聞いたこともない駅名だったが、僕は思わず降りてしまった。僕は傘もささず、ただひたすら雨に濡れながら、これからどうしたものかと考える。しばらくすると、車両が二両しかない電車が入ってきた。ああ、随分田舎に来てしまったなと、僕は思う。
 僕はその電車に乗り、なるべく人の思念に触れないように、隅っこの席にすわる。
 電車はどんどん田舎の方へ進んでいく。窓の外には田園が広がり、雨に濡れそぼっている。
「乗りこしの方はいらっしゃいませんでしょうかー」
 車掌が僕の前を通りすぎていく。その車両には僕の他には女子校生らしき二人連れと、おじいさんしかいない。おじいさんは弁当を食っている。電車は小さな駅で停まり、腰の曲がったおばあさんが乗ってきた。おばあさんは僕の向かい側の席にすわった。とても穏やかな顔をしている。僕は、このおばあさんの物語になら、包みこまれてもいいなと思う。突然パシッという音がして、目に入る光景が赤色に染まっていった。


  ボイジャー

「それじゃ行ってくるよ」
 と、ボイジャー坊やは言いました。地球の人々の温かいまなざしに見守られながら、彼は長い旅に出発しました。彼はまだ小さいので、ロケットおじさんの背中におぶさって出発しました。おじさんの名前はタイタン・セントール。でもおじさんとはすぐに別れなければなりませんでした。
「ボイジャー、元気でな」
「おじさん、さようならー」
 こうして彼の孤独な旅が始まりました。彼は出発の記念に、地球の写真をパチリと撮りました。手前に地球、向こう側に月をおさめた、立派な写真です。
 彼が旅を始めてから、二年がたち、彼はついに木星にたどり着きました。
「うわあー、すげえや」
 彼はうれしくなって木星の写真をパチパチと撮りました。その巨大な星には、白と赤褐色の気体が渦巻き、美しい模様を作っていました。白い縞模様はアンモニアの氷の雲で、その下に硫化水素アンモニウムの茶色っぽい雲が見えています。強い東西風が縞模様を作り、またそれと逆方向の流れとからまりあって、荘厳な大赤斑を形作っています。
「うわっ、こいつもすげえや」
 彼は木星の衛星イオの写真を撮りました。それはどろどろの溶岩に包まれた星で、いくつもの火山から噴煙を噴き上げているのでした。
 それからさらに一年、彼は虚無の大海原を旅していました。それはとても寂しい旅でした。彼は何度もなつかしい地球のことを思いかえすのでした。
 第二の目的地である土星にたどり着いた時、彼はその美しさに息をのみました。
 土星本体が、リングに巨大な影を落としています。太陽から十四億一〇〇〇万キロも離れた極寒の世界にもかかわらず、なんともいえない温かさを感じました。
 無数の細かい粒子と氷からなるリングは、幅が六万キロメートル以上もあるのに、厚みは数十メートルしかない、とても薄っぺらなものでした。無数の細いリングからなるそれは、レコード盤のように見えました。
 彼は何枚も何枚も写真を撮りました。彼はもう立派なカメラマンでした。
「さようなら」
 彼は土星に向かって手を振ると再び長い旅路につきました。
 それからが真の孤独の旅でした。どこまで行っても、彼は小さな点にしかすぎない星々しか見ることができませんでした。そんな星々のうち、彼に話しかけてくるものもありました。
「よう、どこ行くんだい? ちっこいの」
「さあね。木星と土星の写真を撮るっていう仕事も終わってしまったし。僕はただもう新しい世界を見にいくだけさ」
「おいおい、この先は何にもないぜ。悪いことは言わない。お家にお帰りよ」
 でも彼にはUターンする機能などついていません。二度と帰れない旅だということは、最初から覚悟していたことでした。


 長い年月が過ぎ、気がつくともう出発してから十二年もの歳月がたっているのでした。人間の年齢でいえばまだ子供なのでしょうが、彼はもう立派な大人でした。
 彼は一大決心をしました。「太陽系を撮ろう」と。
 しかし、太陽から六十億キロメートルも離れているといっても、太陽の光はあまりにも強く、カメラが故障してしまうかもしれません。しかし彼は撮りました。彼はくるりと振り返ると、広角カメラと望遠カメラを使って、太陽系の家族たちの写真をパチパチと撮りました。太陽の写真を撮った際、案の定、カメラのシャッター機構がゆがんでしまいました。これで、カメラマンとしての彼の役割は終わったのです。
 それからさらに二十年もの歳月が過ぎ、彼は老人になっていました。彼の原子力電池は四十年しかもちません。つまりそれが彼の寿命なのです。彼は最後の目的地であるヘリオポーズに向かって旅していました。
 太陽風がおよぶ範囲は冥王星や海王星の外側にまで広がっています。それがおよぶ範囲を太陽系とするならば、それが終わる境界、すなわちヘリオポーズを探すことは、大変意義のある仕事です。
 計算ではもうそろそろ着くはずだったのですが、彼はそれを見つけることができずにいました。彼は体力の限界を感じていました。
「もうこれ以上、旅を続けたくないな」
 彼はポツリとつぶやきました。その時です。彼の目の前に巨大な円盤が現れました。その円盤は、とても温かい感情で、彼に手招きするのです。彼はゆっくりと円盤に近づいていきました。初めて会うのに、とてもなつかしい気持ちがしました。
 「もういいのです。ヘリオポーズならあなたより先に旅立ったあなたの弟さん(ボイジャー二号)が見つけました。あなたはもう、孤独に満ちた旅を続けなくていいのです。ゆっくりとお休みなさい」
 西暦二〇一〇年、ボイジャーの長い旅がようやく終わりを迎えたようでした。


  僕の行方

 おばあさんの物語はここで終わっている。おばあさんの思念の感じからすると、これがおしまいというわけではなく、続きがあるようなのだが、この続きをどうしようかと考えあぐねているという感じだ。
 それにしても人は見かけによらないものだ、と僕は思う。なぜおばあさんがこんなに宇宙のことに詳しいのか、もちろん僕に分かるはずがない。
 おばあさんはこっくり、こっくりと居眠りを始めた。田園ばかりが広がる単調な景色が延々と続いている。次の駅に着いても、そのまた次の駅に着いても、なんだか同じような風景で、同じ所をどうどう巡りしているかのように思えてくる。何個目かの駅でおばあさんは突然目を覚まし、
「あらあら大変」
 と言いながら降りていった。僕の向かい側には、単調な田園風景が残された。
 電車はとてもゆっくり、ゆっくりと進んでいく。少しぼんやりしていたようだ。気がつくとおじいさんと女子校生も降りてしまっていて、車両には僕一人だけが残されていた。
 僕は雨と、田園と、空っぽの車両に包まれて息苦しくなる。僕は窓の外をじっと見つめている。延々と続くその風景を見ていると、だんだんと眠くなっていく。
 夢の中でも、僕は一人ぼっちで車両の中にいる。僕の向かい側の席にふっとかわいらしい少女が現れる。
「これからどこに行くの?」
「分からない。僕にはどこか目的地があったはずなんだけど、どうしても思い出せないんだ」
「じゃあ、どこから来たの?」
「それをずっと考えていたんだ。どこから来て、どこへ行くのか」
「ウフフ、そんなことが分かる人はいないわ」


「お客さん、終点ですよ」
 車掌に揺り起こされて、僕は慌てて席を立つ。
 僕はひどくさびれた小さな駅に降りる。小さなホームに降りると、周りは美しい田園に囲まれている。雨は相変わらずしとしとと降っている。傘は電車の中に置いてきてしまった。今の僕には必要のないものに思えたから。
 ホームの向こう側に、やはり傘を持たずに立っている男が見える。僕は男の方に向かって歩いていく。男もまた僕の方に向かって歩いてくる。雨で煙る中でもやっと顔が分かる距離にまで近づいた。
 どこかで見たような顔だ。それもそのはずで、男は僕自身だった。僕が驚いた顔をすると相手も驚いたような顔をする。
 パシッという音がして目の前が真っ赤になる。僕は男の物語の中に入りこんでいく。


  雨

 雨が降っている。絹のように細かい雨が。周りには草原が広がっている。僕は細い道を歩いている。舗装されたアスファルトの道路であるにもかかわらず、僕の足はまるで泥沼につかっているかのようにずぶずぶと膝のあたりまで沈みこむ。それでも僕は前へと進んでいく……

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