雑誌に載っているなんということもない写真や絵を、じっと見つめてしまうことがある。自分がその中に吸い込まれるような気がする。ひょっとすると今の自分は、何かの雑誌や、本の中に入りこんでしまった存在なのかもしれない、などと思う。こういうのを妄想、というのだろうか。
 そんなことを考えながら、但馬は山積みされた本をながめる。ふらふらと、「日本名所旅行」という名の月刊誌に手をのばす。なにげなく開いたページに、ラクダのこぶのような山の写真がのっている。全身を緑の木で覆ったそれは、ミルクを溶かし込んだような霧で包まれている。
 ――T山は今新緑の季節で、山登りには絶好の時期です。深閑とした森の中に建つH寺を訪れる観光客は少なくなく、隠れた名所となっています――
 隠れた名所、という言葉には弱い。四十を過ぎて、修学旅行の候補地くらいにしか考えていなかった京都、奈良を旅してみた。女房子供は大はしゃぎだったが、但馬には違和感しか感じられなかった。
 一人旅をするならこんな名も知られていない場所だな、と思う。しようと思えばいつでもできるのだが、家族をほうっておいて自分だけ休暇を楽しむことには抵抗があった。
 行ってみたいなあ。そう思うと自然とため息がもれた。うらめしげに写真を見つめていると、その風景は徐々に拡大されて、眼の中に侵入してくるような気がした。そう、まるで自分がその風景の中に入りこんでしまったかのように……。
 ――長く続く石段を上っていくと、やがて昔は金色に輝いていたであろう平屋建てが見えてきます。ほう、ほうという鳥の声がいっそう静けさをきわだたせ、日常空間から切り離された世界にいざないます……
 日常空間から切り離された世界に、いざなわれたかのようであった。長い石段を一段、一段ふみしめているうちに、煙草や酒でいためられた内臓の汚れが汗となって排出され、体がきれいになっていくのを感じる。霧は深くたちこめ、その中に建つ古びた寺にはもう過去の栄華は見られない。
 もし自分が民俗学者などではなかったら今頃どうしていただろう、と但馬は思う。きっと今頃、本屋に並んだ日本なになに旅行、などという雑誌をながめながら、遠くの地に旅することを夢見ている、平凡な一市民であったに違いない。
 むせるような木々の息遣いを感じながら、磨耗した石を踏みしめていくに従って、昔は金色に輝いていたであろう平屋建てが眼前に迫ってくる。近寄ると、古びた木の柱にはひびさえ入っていた。
 奥に鎮座している仏像は、日があまり射し込まないために顔だけがうっすらと見えている。手を合わせ拝んでいると、気持ちが和んできた。 
 こんなふうに各地を訪ねて歩くことは、楽しくもあるが、不安でもある。まるで自分が定住の地を持たない流浪の民であるような気がしてくる。
 大学を出た時には、科学者になるつもりだった。そしてある企業の研究所に就職した。しかし、研究室に閉じこもる自分は、本当の自分ではないような気がしていた。やがて民俗学などという学問にのめりこむようになり、旅に出たのだ。なんだか自分が自分でないような、確固たる“私”というものが確立できないような、そんな感情に追いたてられるようにして……

       *       *       *

 山を降りると、一軒の古びた本屋が目に入った。高校生らしき制服を着た少年が、本に見入っている。商店街でもなんでもない。田の間の車もめったに通らないような細い道の脇に、その店だけがぽつんと建っているのだ。なぜ興味を持ったのか。但馬は吸いこまれるようにして近づいていった。
 戸外に本棚があって、日に焼けるのも構わず、本が野ざらしになっている。大学への入学案内の類が並んでいる。少年をちらと見ると、彼もまたそのうちの一冊をにらむように読んでいた。但馬はなつかしい気分になった。自分の高校時代を思い出す。
 少年の横に立ち、積み上げられた雑誌の一冊を取り上げ、開くと、瀟洒な灰色の校舎が、青空を背景にそびえている写真がのっていた。
 ――確固たる学問的基盤の上に築かれた由緒正しい歴史を持つS大学は、自由な学風が受け継がれている。都心から二十分という距離にありながら、キャンパスは自然に恵まれ、勉学にもスポーツにも十分なゆとりのある環境を誇っている。諸君は生き生きとした学生生活を謳歌することができるだろう……
 生き生きとした学生生活を謳歌している、とは言いがたかった。但馬青年は瀟洒な灰色の校舎を仰ぎ見た。
 財布の中身が寂しい。あと十日もカップ麺だけで我慢しなければならない事を思うと、憂鬱になった。このまま家に帰っても別にすることなどない。パチンコ屋に行くか、本屋で立ち読みでもしようか。
 結局、本屋に入った。立ち読みするだけならただだ。
 パソコン雑誌を開きながら、「俺もパソコン、欲しいなあ」などと考える。青年が開いたページには、大人気のロールプレイングゲーム、Jack and Jokerの画面写真がのっていた。砂漠の中に銅色の塔がそびえたち、周りを城壁のようなものが取り巻いている。
 ――仲間とはぐれてしまった魔導士はやがて幻想の街に着く。ここでのクエストは日の出の塔にある支配者の石を探し出すことだ。北東にある泉にはコインを投げよう。妖精が現れてMPの上限を増やしてくれるぞ――
 塔の門番にあっけなく追い返されてしまったタジマは、困っていた。あそこに支配者の石があるはずなのだが。
 仲間とはぐれてからもう一週間にもなる。一体どこにいるのか……。 
 くすんだ黄土色の壁の、薄汚い民家が両脇に並ぶ道を歩いていると、たらいで洗濯をしている太った女に出くわした。
「あの、もし。日の出の塔に入るにはどうしたらよいか、知らんかね」 
 女はしかめっ面をして首をふった。
「そりゃだみだあよ。王様の許可証でもなきゃ、入れねえだあ」
 そんなものを一体どうやって手に入れたらよいのだろう。魔導士とはいっても所詮は一般市民にすぎない。
 今度は道に落書きしている子供に話しかける。
「君、王様の許可証は……」
「北東の泉にあることをすると、いい事があるよ」
 それだけ言うと、子供は駆け去ってしまった。
 タジマは歩いた。足は棒のようだ。宿屋で休みたい。
 泉を見つけたが、彼には何をしたらいいのかかいもく見当がつかなかった。さらに歩いていくと、「魔書屋」という看板が掛かった店を見つけた。ひょっとするとよりレベルの高い魔法が使える呪文が書かれた魔書でもあるかもしれない。
「いらっしゃい」笑みを浮かべた店員が言った。
「氷の魔書はあるかね。ブリザードの呪文を覚えたいのだが」
「あいにく、そんな高級な書はありやせん。炎の魔書ならあるんですがね」
「そんなのはいらんよ。ファイアボールなんて魔法の初歩の初歩じゃないか」
 自分は本屋に縁がある、とタジマは唐突に思った。なぜそんなふうに思ったのか、自分でも分からなかった。確かに旅立った故郷に本屋はあったが、そういった類の店を見るのはずいぶんと久しぶりのはずだ。
 何かが分かりかけてきたような気がした。しかしそれが何なのかを考えようとすると、頭の中が濁ってきて、結局分からないのだった。
「どうしやした? 何かご不満でも?」
 どうやら仏頂面をしていたらしい。
「いや……」なおも思案を続ける。「自分が自分でないように感じる時があるんだよ。まるで、学者か、大学生ででもあるかのような……」独り言のようにつぶやいた。
 いやいや、そんなことはないはずだ。タジマは首をふった。自分は魔導士だ。物心ついた時からそうだった。父から厳しく魔法を叩きこまれ、一人前になるまでに十五年もの歳月を費やしたのだ。
「そんな方のために、宗教書も取り揃えてございやすよ」店員は前歯の抜けた歯茎をむき出して笑顔をさらに強調した。「悩めるあなたを救いやす! ってね」
 店員が指差す方を見ると、「明日の仏教」や「チベットの教え」といった本が積まれている。タジマはその中から「明日の仏教」という雑誌を取り上げて、ページをめくった。
 ――ゲンシンの思想は大変にショッキングなものでした。またたく間に民衆の間に広まっていきました――
 タジマが開いたページには、一つの挿絵がのっていた。それを見た時、何か、見てはいけないものを見てしまったような気がした。
 ――人々は心の底から極楽往生を願い、一心に仏を想い、念仏を唱えたのです……

       *       *       *

 彼は、真っ暗な中にいた。鼻をつままれても分からない。
「あの坊主もなかなかしゃれたことをするものだ」と、但馬は思う。「いまわのきわにあるわしに、あのような絵を見せるとは」
 僧は、老いて死にゆく但馬の枕元で、巻物を広げて突き出しながら、高らかに笑ってみせたのだった。
「但馬殿、これが今からあなたが行くところじゃ。とくと見るがいい!」
 思えば殺生を繰り返しただけの人生であった。負けたものよりも勝って生き残ったものの方がつらい。自分が斬ったもの達の怨念をずっと背負っていかなければならぬ。そんな一生だ。しかし武士として生まれたからには戦い続けなければならぬ。あの僧も但馬が斬り殺した武士か、農民の、親類縁者だったのかもしれぬ。
「おとなしい顔をしおって。最後の最後に地獄絵図を目に焼きつかせるとは!」
 僧にとっては最高の復讐だったのだろう。しかしそんなものを恐れていては、武士などやっていけるものか。
 突如、底無しの暗黒が、昼間のように明るくなった。但馬の目に映るもの全てが、真っ赤に燃え上がった。
 激しく燃えさかる紅蓮の炎が、彼の顔を照らすのだった。

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