ああ、いらいらする。無性に腹が立つ。周平は布団から腕を出すと、頭をがりがりと掻いた。今日一日の嫌な事、不愉快だった事を一つ一つ思い出すと、どんどん怒りが高まっていく。今夜はもう眠れそうにない。
 周平の情緒不安定は、一ヶ月ほど前から始まった。そりゃ、人間生きていれば小さいことから大きなことまで、腹の立つ事、嫌な事が沢山ある。しかし以前は何ともなかったはずである。それがふと気がつくと、ささやかな不幸でも異常に腹が立つようになっていた。
 電車の中で他人の肩がぶつかったとか、道端ですれ違う人が「チッ」と舌打ちをしたとか、そういった些細な出来事でも、である。
「また眠れなかったんですか?」
 朝食の後片付けを始めながら、妻が聞いた。
「ああ、どうして」
 新聞を広げながら、周平が答えた。
「だってあなた、夜中にずっとごそごそやってるんですもの」
 おかげでこっちまで眠れないわ、と言いたいらしい、と考えるとまた腹が立つ。
 娘が短大生になって、寮に入ってから、妻とは別々の部屋で寝るようになったのだが、それでも小さな物音が気になって目が覚めてしまうらしい。
 まだそんな年齢でもないだろうに。
「行って来る」
「あなた、薬」
 周平は水色の錠剤を二錠飲んだ。薬局で買った鎮静剤である。不安やいらいら、興奮感を鎮める作用がある。この程度のことで病院に行く気は毛頭なかった。
 会社はストレスをためる所である。上司は無理難題を押しつけ、自分の責任を周平になすりつける。部下は簡単な計算を間違え、それを注意するとふてくされる。しかしそんな事は昔からあったはずだ。ここ一ヶ月間、苦しい程に感じた怒りの原因がどこにあるのか、周平には全く具体的な理由が思いあたらないのだった。
 周平のいらいらは日に日にひどくなっていった。もう気も狂わんばかりだった。
 ある日の朝電車の中で、隣に立っていた人間のひじが周平の腕にぶつかってきた。
 周平は頭にきてひじでつき返した。
 だが、相手が悪かった。髪を茶色に染めたその若者は、次の駅に着くと、周平の鼻を思い切りぶん殴ってさっさと降りていった。
 尻もちをついた周平は、絶叫が喉元まで上がって来るのを必死でこらえた。
 会社に体調が悪いので休む旨を電話で連絡したが、家に帰る気にもならず、山の手線に乗って何周もした。
「こんなことをしていても仕方がない」
 とようやく諦め、降りた。駅のホームに立ち、乗り換えの電車を待つ。
 線路の向こう側に塀があって、いろいろな看板が貼りついている。そのうちの一つが周平の気をひいた。
「催眠療法――あなたの心の傷、治します」


「あなたは今、身も心もすっかりリラックスしています。とても安らかな気分だ」
 それは、全く不思議な感覚だった。眠っているのか、起きているのか、よく分からない。真っ暗闇の中、催眠者の声が頭のはるか上の方から聞こえてくる。
「では、あなたの怒りの原因を探るために、一ヶ月前に戻ってみましょう。あなたはだんだんと戻っていきますよ。だんだんと戻っていく……。どうですか? 何か思い出しましたか?」
「おお、そうだ。妻がこう言ったのだ。"もう三年もおばあちゃんのお墓参りをしてないけれど、次のお盆休みにでも実家に帰った方がいいんじゃないかしら"と」
 周平の父方の祖母だ。
「その時の奥さんの態度が気に入らなかったのですか?」
「いや、妻じゃない。私は"忙しいから今年も帰れない"と言った。実家、実家が……ああ、憎い! 殺してやりたい!」
「大丈夫ですよ。落ち着いて下さい」
「私は、何かを心の奥で憎んでいたのだ。一ヶ月前などというものじゃない。もっとずっとずっと昔からだ。今、分かった。しかしなぜ今まで気がつかなかったのかということになると、さっぱり分からない」
「それは、あなたの潜在意識下に埋もれてしまっていたのです。それが、一ヶ月前の奥さんの言葉がきっかけになって、いらいらとなって現れたのです。では、あなたのご実家のことを思い出すために、さらに過去にさかのぼってみましょう。あなたはどんどんさかのぼっていきますよ。どんどんさかのぼっていきます……」
 気がつくと、周平は小学生に戻っていた。
「周平! またこんな点数をとったのか!」
 周平の父が頬をひっぱたいた。父は厳しかった。体罰だけでなく、言葉による攻撃が、ねちねちと一時間以上も続くのだった。
 周平は運動も苦手だったし、勉強もできなかったから、よく父に怒られた。周平とは反対に、兄は運動も勉強も良くできた。秀才だった。兄の言葉が幼い彼の心につきささる。
 周平、お前はくずだ。周平、お前など生まれてこない方が良かったのだ。
 父とは対照的に、母はやさしかった。過保護ともいえる程、周平に甘かった。
 周ちゃんはいい子ね。周ちゃん、もっとお食べ。周ちゃん、おいで。抱っこしてあげる。
「さあ、もうそろそろ戻りましょう」
 これ以上続けると危険だと判断した催眠者は、催眠を解きにかかった。
「いやだ。母さん、母さん!」
「あなたは、とても温和な人間ですよ。あなたは、もういらいらしませんよ。これから五つ数えるとあなたは催眠から覚めますよ。一……二……三……四……五……ハイッ!」


 周平は、その催眠術師が書いたという「自己催眠療法」という本を、高い金で買わされて帰ってきた。どうもインチキ臭い。
 二、三日のうちは良かったのだが、そのうちに再びいらいら感が戻ってきた。
 ある日曜日、妻と二人だけのわびしい夕食を終えた周平は、する事もないのでその自己催眠とやらを試してみることにした。布団に横たわり、本に書いてある通りの文句を心の中で繰り返す。
「右腕が重い、右腕が重い」
 なんとなく右腕が重くなったように感じられたら、次に左腕に移る。同じことを右足、左足でも行い、次に「右腕が温かい」と唱える。同様に、やはり両手両足に行う。
 そのような本に書いてある手順を全て行った後、肝心の暗示語を唱える。
「私は、とても温和な人間だ。少しぐらいの事では、腹を立てない」
 周平はため息をついた。こんな事が本当に効くのだろうか。
 −−私は、自分の憎悪の原因を知りたいのだ。そして、その原因をとり除きたいのだ。
 周平の意識が、すーっと遠のいていった。
 周平は、布団から起きだしたらしい。「らしい」というのは、それが現実なのか、夢の中の出来事なのかよく分からなかったからだ。
 妻が何か声をかけたようだが、周平は答えず、服を着て、財布を持って出かけた。
 そして駅に着き、電車に乗った所でまた意識が遠のいた。
 どの位たっただろうか。ほんの数分にも思えるし、何時間もたったようにも思える。
 意識がなかったにもかかわらず、何度も乗り換えたような気がする。もしそうだとすると、相当遠くまで来たということだ。周平が電車を降りると、そこには奇怪な風景が広がっていた。
 そこは、一面の荒野だった。ところどころに巨大なとげが突き出している。不気味な青みがかった紫色の空に、つるんとした白色の月が浮かんでいる。
 と、思ったら、そいつは反転した。
 それは月ではなく、巨大な目玉だった。それだけならまだしも、よく透る声でしゃべりだした。
「ようこそ。ここはあなたの潜在意識の世界だ」
「お前は……お前は誰だ!」
「私はあなただ。より正確には、潜在意識の下にあってあなたが普段意識していない、あなたの本当の姿だ」
「私はなぜこんな所にいる」
「あなたは、自分の憎悪の原因を探りに来たのだ。それはあなたの潜在意識の奥の奥、あなたの心の中心部にあるのだ。ご覧なさい」
 目玉が見る先に、鬱蒼と茂った森がある。
「あの奥にあなたが求めるものがあるのです。さあ、行きなさい」
 周平は森の中へと入っていった。どんどん奥へ進んでいく。突然木々が燃え上がり、炎の海に変わった。周平は駆け出した。
 焼かれる寸前のところで、ようやく抜け出した。
 そこには洞窟がぽっかりと口を開けていた。
「さあ、行きなさい。その奥に憎悪の原因があるのです」
 もう一つの別の声が、洞窟の中から響いた。
「来るな! 引き返せ!」
 だが周平は入っていった。もはや引き返すことはできない。
 途中で、その場の雰囲気にそぐわない妙なものを見つけた。それはゴルフバックだった。
 どこかで見た覚えがある。そうだ。これは父のものだ。だが何故こんな所に。
 この先にはどんな怪物が待っているか分からない。周平は、用心のためにゴルフバックからクラブを一本抜きとった。
 周平は、ついに洞窟の奥の奥へとたどり着いた。そこにはおぞましい臭気をたてる怪物がいた。
 毒々しい赤い色に黒のまだらの斑点。イモリをでぶでぶと太らせたようなそいつは、周平を見ると狂ったように笑いだした。
 周平は、そいつを見ると怒りが腹の底から湧き出してきた。
 憎い。私はこいつが憎い。
 周平はクラブをかまえた。
「あんたには私を消せないよ」
 言うと、怪物はまたしてもさも可笑しそうに笑った。
「私はあんたの心の中にすっかり根をおろしてしまった。あんたの心は私に支配されているのだよ」
「な、なんだと!」
「あんたは何か決断をする時に、自分で考えていると思うだろう。けれどそれは違う。あんたはそういう時、私の意志通りに動かされているのだ。あんたは私の命令で動くロボットなのだよ」
 怪物は腹を抱え、身をよじった。
「おのれっ!」
 周平はクラブを打ちおろした。
「おのれ! おのれ!」
「ギャーッ!」
 激しく打たれ、苦悶の表情を浮かべるそいつを見ると、逆にどんどん憎しみが高まってくる。
「ギャーッ!」
 そいつはついに断末魔の叫びをあげ、消えていった。
「やった! 私はついに憎しみの原因を打ち消したぞ。これでもう悩まなくてすむ」
 景色がぐにゃぐにゃとゆがみ始め、だんだんと現実の風景に戻っていった。真っ暗だったが、窓から差し込む月の光の助けもあって、だんだんと目が慣れてきた。
 そこは台所だった。水道の蛇口や、やかんや、そういったものは、全て見覚えのあるものだった。そこは周平の実家だった。周平は、いつの間にか親元に帰ってきていたのだ。
 そして、床を見おろした周平は、そこに倒れている人物を見て愕然となった。
「ま、まさか」
 周平の手から、クラブがカランと音をたてて落ちた。
「まさか……そんな……」
 それは、年老いた周平の母親だった。

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