幻覚について (2005.2.9)

 今、立花隆著、「臨死体験」を読んでいる。本当は、読み終わってからああでもない、こうでもないとうだうだ書く方がいいのだろうが、まあいいや。なんて厚いんだこの本。

 この本で一番びっくりしたのは、水晶玉をじっとみつめていると、幻覚を見るということである。臨死体験の研究をずっとやっていたレイモンド・ムーディが、今は人間の心について研究している。で、学生を使って実験したところ、大抵の人間が幻覚を見たという。立花隆は受精卵を見、担当編集者は小さな魚を見、娘は揺れ動く腕を見たそうだ。天然の水晶でなくてよく、水晶玉という名のガラス玉でもいいらしい。占い用具を売っている店で、3万で買えるそうだ。

 やってはみたいが、3万も出す勇気はない。で、透明感のあるものならなんでもいいというので、コンビニ弁当のふたでやってみた。5分ほどで飽きてきた。で、よく読むと真っ暗にしてろうそくの灯りだけで見るそうだ。ろうそくを買ってくるのは面倒くさいので、パソコンの灯りだけにして見た。

 やがて眠くなってきて、眠るか眠らないかの境界のトロンとした状態で幻覚を見るらしい。これを入眠時幻覚という。夜中に部屋を真っ暗にしてパソコンの前で弁当のふたをじっとみつめるバカは私だ。で、うとうとしてふたを落とすまでやってみたが何も見なかった。やはり水晶玉でないとだめなのか?

 眠る時に見る入眠時幻覚の他に、起きる時に見る出眠時幻覚というのもある。だから、寝る時と起きる時に見た幽霊は幻覚である可能性が高い。他にも幻覚を見る条件はいろいろある。

  • 何も食べず飢餓状態にある。
  • ずっと寝ていない。
  • アルコール中毒。
  • ドラッグをやっている。
  • 統合失調症である。

 幻覚についての本は2冊しか読んでないが、インパクトが強かったのは邦山照彦著、「アル中地獄」である。アル中から抜け出すための療養所みたいな所に入った著者が、禁断症状により幻覚を見るのだ。脳みそがバーン! という音とともにはじけとぶ。「ああ、とんでもないことになった!」と、泣きながら欠片(かけら)を集めるのである。他にも次から次へとすさまじい幻覚に襲われるのだ。またこの本を読めば、幻覚というのは別に視覚だけに起こるものではないことが分かる。新鮮な白木の匂いをかぎ、その手触りを感じ、猟銃をかまえた兄貴が「お前は死ねばいいのだ!」と言うのを聞くのだ。

 机に向かい勉強してて、肩をとんとんと叩かれ、振り返ってみたら誰もいなかった、というのは触覚に幻覚が起きているとも考えられる。勉強してたら眠くなってくるので入眠時幻覚が起こりやすくなるはずだ。あるいは、それを体験した人はダイエット中だったのかもしれない。1ヶ月に5キロも痩せるとそれは飢餓状態なので、ダイエット中の方はご用心を。

 前に、「夜中の2時に鏡を見ると死後の自分が映る」と書いたが、これなんかはレム睡眠時に起こる出眠時幻覚じゃないかと思う。多くの人が11時頃に寝るものだとする。90分毎にレム睡眠になるので、3時間後の2時にもそうなる。で、何かの拍子にたまたま起きて鏡を見たら幻視を体験する。

 こんな怖い話がある。ある医者が高速道路を車で走っていると深い霧が立ち込めてきた。やがて霧は晴れ、病院に着く。ところが警察が来て「あなたは人を轢き殺しましたね。目撃者もいます」と言う。医者は「そんなバカな。何かの間違いでしょう」と言って相手にしない。が、車を見るとバンパーがへこみ、血がべっとりとついている。医者は逮捕されてしまうのだ。

 これが作り話でないとするならば、高速道路催眠現象(ハイウェイヒプノーシス)だという。高速道路のように単調でまっすぐな道が続いており、信号もないという刺激が少ない状態がずっと続くと、目は開いているが脳は寝ている状態に陥るという。この間に人を轢いているのだ。霧はハイウェイヒプノーシス時に見た幻覚である。

 立花隆著、「臨死体験」に戻るが、臨死体験には2つの立場があるという。あの世が実在する証拠だとする立場と、脳内現象にすぎないとする立場だ。後者の場合、脳が低酸素状態になると幻覚を見るという。死ぬ時にもそうなる。

 じゃあそれでいいじゃん。臨死体験は幻覚! 人によって内容が違うのは幻覚なんだから当たり前! おしまい! といきたい所だがそうはいかない。共通する部分もあるのだ。ほとんどの人が、真っ暗なトンネルをくぐって光の世界に出る、と言っている。

 幻覚に共通項があるのは別に不思議ではない。アル中では体を虫が這い回るし、統合失調症では支離滅裂でストーリー性のない内容となる。だから臨死体験の幻覚に共通項目があったっていいじゃないか、と思う。天国と言えば、情景の差こそあれなんだか明るい所だ、地獄は真っ暗な中に炎が燃え上がっているのだ、と、誰だってイメージするのではないか。

 逆に言えば、共通する部分と言えばその程度だともいえる。この本にたくさん述べられている体験内容は、人によっててんでバラバラなのだ。みんな違うあの世に行くのか? これについて臨死体験研究者、キュブラー・ロスはこう言っている。
「この世は物理的エネルギーに支配されているが、あの世はサイキック(心霊的)・エネルギーで支配される。だから見える情景はその人の主観による」と。

 どう考えたって死後生否定者より肯定者の方が有利だ。なにしろあの世はなんでもありだ。どうとでも言える。否定者はこの世の科学を使うしかない。

 また、臨死体験を肯定する根拠もある。本当に体外離脱をしたのでなければ知りえない情報を知っている、という事例がいくつかあるのだ。病院のどこそこにテニスシューズがあるのを見たという。看護婦が行ってみると確かにそこにテニスシューズがある。その患者は病院に連れてこられてすぐベッドに寝かされ体中管だらけになり、とうていその場所に行くことはできなかったはずなのである。これは、あくまでも根拠であって証拠ではない。その体験をその当時に第三者に納得できる形で客観的記録として残さなければ、そのまま信じるわけにはいかない。

 臨死体験者はみんな、「死ぬのが怖くなくなった」と言う。私は勘違いしていたのだが、どうも本を読む限り、臨死体験者はあの世の入り口まで行って帰ってきたのではなく、その光の世界があの世らしいのだ。真っ暗なままで光を見なかったわずかな例外の人でさえ、「死ぬのが怖くなくなった」と言っている。あの世はとてもいい所らしい。誰も地獄になんか行っていないのだ。

 私はたとえあの世があっても、地獄さえなければいいので、これなら怖くない。光の存在がいて愛であふれている。うん、結構なことではないか。


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