あの世は側頭葉にある (2005.2.16)

 やっと立花隆著、「臨死体験」を読み終えた。厚かった。

 ウィリアム・ジェームズの法則というのがある。ある程度の証拠は出るものの、これは絶対だ、と言えるものは出ない。信じる人には十分な証拠が出る一方、信じない人には否定するに十分な曖昧さが残る。超常現象とはそういうものだ、という法則だ。

 体外離脱が本当かどうかを確認するために、いろいろな人が実験を行っている。ところが、どれもこれもウィリアム・ジェームズの法則にあてはまってしまい、決して本当だとも嘘だとも証明できないのだそうだ。ちなみに幽体離脱という名前の方が馴染み深いが、体から抜け出る主体を幽霊だと決めつけてしまっているので、体外離脱と呼ぶそうだ。体外離脱は生きている時でも起こる。臨死体験も、瀕死の重症でもなんでもない人にも起こる。

 俳優、豊川悦司も体外離脱を経験している。豊川悦司といえば、個人的には名作、Night Headの「兄さん」である。私は「世にも奇妙な物語」が好きだ。が、最近の忘れた頃にちょこっとやる世にも奇妙な物語は、純粋に奇妙な話ではなく、無理矢理感動させようとする。なんで奇妙な話に感動が必要か! 私はアンビリーバボーを見ていて、後半の「感動のアンビリーバボー」になったらさっさとチャンネルを変えてしまうタイプである。

 というわけで「世にも奇妙な物語」的な話は大好きだ。だからNight Headも好きだ。ビデオを借りてきたらおまけでインタビューが入っていた。そこで豊川悦司は体外離脱体験を語っていたのだ。上空を飛び回ったのだそうだ。武田真治は「うらやましいです。僕もやってみたいです」と言っている。私もやってみたい。水晶玉で幻覚を見たり、悟りタンクで体外離脱したりしてみたい。

 武田真治もまた、個人的にはNight Headの弟である。それ以外の何者でもない。特に、めちゃめちゃイケてるに出ている彼は理解できない。正直言って、武田真治も雛形あき子も全然役に立っていないと思う。誰がどう見ても向いていない番組に出なければならないほど、俳優という仕事は儲からないのだろうか。

 私は小松左京の小説が好きだ。ぶっちゃけた話、SFが好きなのではない。小松左京の本が好きなのである。他のSF作家に面白い話を見つけ出すのは難しい。奇妙な話に開眼(?)したのも小松左京によってである。世にも奇妙な物語よりもこちらが先である。もちろん、ただ奇妙なだけの創作物語だったらつまらない。不思議な雰囲気の果てにある驚くべきオチ、これがいいのだ。

 芥川龍之介の小説にも、ショートショート的な話がいくつかある。あ、小松左京よりこっちの方が先かなあ。友達から借りた本に、芥川龍之介の「魔術」が収められていたのだ。いろんな作家の、不思議なショートショートばかりを集めた本だった。残念ながら、芥川龍之介の掌編はショートショートよりエッセイみたいなのが多い。ちなみに私の定義では、なんかオチがついているのがショートショートである。ただ短いだけの話は掌編である。全然おもんない。

「魔術」は今だったら「なんだ、○オチじゃん」でおしまいだが、当時はすごいと思った。「地獄変」や「沼地」は今でもダントツである。今ならどれも、青空文庫でただで読める。

 小松左京の話はいくつか「世にも奇妙な物語」でドラマ化されているが、ひどい改悪がなされている。最近放送されたものでは「影が重なる時」である。だから「影が重なる時」になんで感動が必要なのか! 原作をドラマ化する際にシナリオライターの勝手な思い込みで、あるいはテレビ局の上の人の命令で、ろくでもない改悪が施される、私はこれを乱歩Rの法則と命名したい。逆に原作をよく消化した上で良作に仕上げているドラマもあることは言うまでもない。

 体外離脱の実験の話に戻るが、「私はいつでも自由に体外離脱ができる」と豪語する人を被験者にして行う。隣の部屋に書いてある5桁の数字を当ててもらう。その人が一歩も動いていないことを監視する。

「これなら確実じゃん」と思えるのだが、何度もやって1回だけ当たるのだ。5桁の数字を偶然に当てる確率は10の5乗分の1、つまり10万分の1である。それでも、時計のガラスに映った数字を見た可能性もあるという。このように、どんな実験をやってもウィリアム・ジェームズの法則にあてはまってしまうのだという。だったら今度は時計を取り外してやってみればいいのに、と思うのだが、そういう事は行われない。

 この間「瀕死の重症者が行けるはずがない場所のテニスシューズを見た」という話を書いたが、立花隆の見解はこうだ。瀕死の重症とは言っても全く意識がないわけではない。たまたま誰かが話をしたのを薄い意識で聞いていて、それが潜在意識に残っており、臨死体験者の脳内でイメージが組み立てられ、自分が肉体から抜け出してテニスシューズを見てきたのだという記憶が出来上がるのだという。

「あそこの病室の窓枠に、テニスシューズが置いてあるんですってね。なんでそんなもん置いてあるんでしょ。まあ、気味悪いわねえ」とかなんとか、意識不明の患者の横で看護婦が話していて、それと臨死体験者特有の幻覚が混ぜ合わされて、そういう現象が起こったというのだ。

 なんだかこういうふうに要約しちゃうと元も子もないね。立花隆はもっとたっぷり考察しているので信憑性がある。「本当に体外離脱したのでなければ知り得ない事実を知っている」という現象は、たいていはこれで説明できそうだ。

 もう一つの可能性は、臨死体験者、あるいは研究者が嘘をついているということだ。医師、ラリー・ドッセイは驚くべき例を発表した。サラという先天性盲人が胆のう炎の手術中に体外離脱したが、手術室のレイアウトや看護婦長のヘアスタイル、麻酔係の服装などを正確に言い当てたと言うのだ。人は魂の存在になるとすべての障害が治っているという。先天性盲人なので薄い意識の状態で見たとは考えられない。これは現実体験説(臨死体験は幻覚ではなく本当に体験したことだとする説)を支持する有力な証拠だとして世間を騒がせた。

 ところが、臨死体験研究者ケネス・リングが問いただしたところ、ラリー・ドッセイは作り話だったことを白状したというのだ。

 で、その幻覚だが、脳の側頭葉に電極を当てて刺激したところ、体外離脱を始めとする臨死体験の様々な要素はほとんど起こったという。もちろん、この場合の体外離脱はそういう感覚が起こったということであって、隣の部屋に行って数字を見てきたわけではない。

 これは動物実験ではない。人体実験である。50年前、ペンフィールド医師はてんかんの治療のために脳の各部に電極を当ててみたのだそうだ。50年前とはいえぞっとする治療だ。患者の言うことを聞かなければいけないので局部麻酔である。今では開頭しなくても、特殊なヘルメットをかぶせて電磁波をあてて同じことができるという。

 死のストレスが間脳に刺激を与え、さらにそれが側頭葉に刺激を与え、臨死体験を起こすのだ。そして脳が機能停止に近い深い感覚遮断状態にある場合、現実と幻覚の区別がつかず本人には現実に起こったこととしか思えないのだ。

 これは仮説にすぎない。そもそも脳のことなんてほとんど分かっていない。我々の頭にどうやって意識が起こっているのかもよく分かっていないのだ。

 上下巻あわせて1000ページにも及ぶこの本の中で、たった1つだけ「これはウィリアム・ジェームズの法則に当てはまらないんじゃないの?」という事例がある。運送業者アラン・サリバンは手術室に入ってすぐに麻酔で眠った。そして体外離脱した。が、彼は自分の体験を誰にも話していない。手術の様子を実際に観察したのでなければ分からないことをいろいろと立花隆に語った。だがそれだけだとサリバンが嘘をついているのかもしれない。そこで立花隆はサリバンと一緒に病院に行き、医師に確認したのだ。サリバンの言ったことは全部事実だったのである。

 まあ、これだって立花隆が医師とサリバンにかつがれた可能性もなくはない。

 で、立花隆は現実体験説と脳内現象説と、どっちが正しいのかという結論は出していない。ただ立花氏自身は脳内現象派であり、本を読むと脳内現象説が正しいように思える。

 これを書いている最中にニュースのBGMで「世にも奇妙な物語」で使われた曲が流れたり、爆笑問題の番組で霊能力者が体外離脱して芸能人の家に行き、部屋の様子をぴたり言い当てたりした。こういうことは、時々ある。これを時 貴斗の法則とは名づけないが、不気味ではある。Dr.コパが出てきて「たちばな(橘)」と言った時にはちょっとびっくりした。


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